■はじめに
動物の身体やそれを作っている細胞は様々な機構によって体外や体内にもたらされた変化を細胞に伝え、そうした変化に対して適切な指示を今度は他の細胞に伝え、
あるいは全体として動物の行動としてあらわそうとします。
変化とは例えば皮膚表面にあたる紫外線や雨、さらには有害な化学物質であったり、 癌のような自己の細胞が変化してしまったものもふくまれます。 脳にもたらされる様々な情報、例えば五感を通じて脳内にもたらされるもの、
いろいろな知識として記憶すべき事柄、 いやな思い出やいい思い出などの外からの刺激(感覚の刺激や攻撃)、 望みあるいはまた「ムカツク」といった感情など脳の中の動機や欲求に常にさらされているといえます。
私たちの研究室では環境や情報刺激に対する細胞応答の中でセリンプロテアーゼが重要な役割をしていることを証明しようと研究を続けてきました。
なぜプロテアーゼを選ぶのかという理由については後でご説明します。私たちの研究は基礎研究ですので、ここで研究をご紹介するにあたってとくに商品化などは考えておりませんが、このサイトをご覧になって生物の身体とはうまくできているとお感じになることや、あるいはさらにおもしろい考えや仮説のための材料にしていただければ幸です。
ただ、それほど遠くない将来に今よりもっと効率のいい学習方法の開発、
子供たちが追い詰められないで楽しく勉強できる環境づくりのためや、
いろいろな病気の治療にこうした研究は生かされるものと信じております。
【参考書】
現在、記憶の研究は脳内で観察される長期増強(LTP;エルティーピー)という現象を記憶の獲得過程(つまり記憶するステップ)と考えることがほとんどであり、これについてはガヤ氏のホームページをご覧ください。
また、少し専門的になりますが、脳内での学習などの情報処理についてガヤ氏を含め たくさんの専門家があつまって「動くシナプスと神経ネットワーク」という本を出版いたしました。
興味をさらに深めたいと考えられたら是非とも読んでみてください。 |
 |
■プロテアーゼとは
皆さんはプロテアーゼという言葉からどのようなことをお感じになるでしょうか。
消化という言葉を思い浮かべた方はなかなかのものです。消化酵素の中でペプシン、トリプシンやキモトリプシンといった酵素はプロテアーゼに属します。洗剤のなかに入っている“酵素パワー!”の多くもプロテアーゼです。
プロテアーゼはかって生化学といわれた学問領域で花形スターでありましたが、ゲノム情報が盛んに研究されるようになってDNA(ディーエヌエー)というのが主役になってくるとすっかり隅っこに追いやられてきたという感があります。
しかし、酵素をはじめ我々の身体を作っている細胞、筋肉、髪の毛などは主に蛋白質から出来上がっており、そもそもDNAの遺伝情報を頼りに蛋白質は作られているもので、人間にはヒト固有の蛋白質から出来上がっているのです。蛋白質が身体を作っているものですから動物や植物を食べて暮らしている我々はそれを消化して身体に取り込まなくては成りません。
こうして消化酵素としてのプロテアーゼが必要になるのです。
しかしそれだけではありません。体の中では自分自身の蛋白質を分解したり、あるいは新しく作られた蛋白質を活性化したり、血液を凝固させたり、細胞を動かしたり、神経細胞の突起を伸ばしたり、引っ込めたり、いろいろな細胞の機能にいろいろなプロテアーゼが関わっているのです。
ここで基本的なプロテアーゼの定義を書いておきましょう。プロテアーゼとは蛋白質を形作っている結合(ペプチド結合)を切断する酵素です。 切断される際にプロテアーゼは蛋白質を抱え込み、その活性部位で切断いたします。はさみの役をする活性部位にはいくつかのタイプがあり、アミノ酸のセリンをここにもつものをセリンプロテアーゼというわけです。
もうひとつ重要な分類があります。プロテアーゼには細胞外作用型と細胞内作用型の2種類あります。ここでは細胞外作用型についてのみ考えていきます。
■なぜプロテアーゼか?
もともと私たちは脳の中にある海馬という場所から記憶に関係する分子を取りたいと思っていました。
脳というのは不思議な臓器で、いろいろなパートパートでそれぞれの固有の仕事をしているのに(例えば小脳では運動の制御、視床では感覚、視床下部はホルモンの調節など)、どの場所をとっても、同じ性質の細胞、つまりニューロンが仕事をしているという点は変わりません。
もちろんニューロンにも種類があるのですが、ある仕事に特有のニューロンやその中に含まれる物質というのは見当たらず、これはコンピュータにおいてプログラムが変われば違った仕事をやらせることができることに似ているかもしれません。
海馬という場所も同様で、ものごとを記憶するという特別なことをしている場所だからといって特別な物質は見つかっておりませんでした。
しかし、海馬だけは少し違うのではという考えがありました。なぜなら、単に情報の伝達をするということと情報を貯えるという意味は大分違うからです。 コンピュータでも演算をすることと貯える装置は違います。プロテアーゼにねらいをつけたのは、この蛋白質が相手の蛋白質に印をつける(つまり切り傷をつける)やり方が後戻りのない方法だからです。
簡単にもとにもどったり、なくなったりする反応だと、印をつけたとしてもすぐなくなってしまうということがあり、この意味でプロテアーゼかあるいは少し難しいですがトランスグルタミナーゼの反応かと考えたわけです。そこで、海馬の新しいプロテアーゼ蛋白質をとる事を考えました。
■新しいプロテアーゼ、ニューロプシン
私たちは海馬からプロテアーゼを見つけ、これにニューロプシンと名前をつけました。
ニューロプシンは脳から新しく見つかったものとして最初のものでした。それまでは血液や他の臓器で見つかったものが脳にもあったという逆のケースがほとんどであったのです。
しかし、その後調べるうち、身体の他の部分、とくに皮膚や子宮にもたくさんあることがわかりました。
ただし、ニューロプシンをもっている細胞には共通する特徴があったのです。つまり、それは外部の刺激に曝されてそれに反応する細胞であったことです。もちろん、脳の細胞も情報という刺激に曝されている点は同じで、海馬ニューロンは情報を処理し、貯蔵するために働いている細胞です。
■ケラチノサイト(皮膚)
皮膚のケラチノサイトは表皮角質層を造る細胞です。
ニューロプシンはこのケラチノサイトにあることがわかりました。 ここでニューロプシンを発現(もっている)する細胞をみると、角質層をつくりながらダイナミックに変化している細胞であることがわかります。
しかし大人の皮膚には、ほとんどニューロプシンは発現しておりません。大人の皮膚でも発癌物質が付いたりするとたちどころに、ニューロプシンはでてきます。有害な物質が皮膚に付くと、皮膚に炎症がおこりますので、細胞を増殖しケラチノサイトを角化して剥がれやすくする一種の防御機構であると考えられます。
また癌に侵された病理組織を調べると、例えば扁平上皮癌という角化がおこりやすい癌ではニューロプシンの発現が盛んになります。
ところが基底細胞腫というそれよりも深い層の角化に関係しない癌ではニューロプシンは正常と変わりません。そのほか乾癬という病気でもニューロプシンが増えるということがわかっております。したがってニューロプシンは刺激や病気と深いかかわりがあることがお分かりいただけるとおもいます。
それではもっと一般的な刺激はどうでしょうか。私たちは夏の海水浴場に行くと強い紫外線によって日焼けをいたしますが、しばらくすると皮がめくれたりしますのでここでも角化が盛んになっている事が容易に想像できます。
このときニューロプシンの発現(白くなっている場所)をみると、通常はほとんどみえないニューロプシンが下図(a-2やa-3)のように強く発現していることがわかります。数字は日焼け後の日数を示しています。

一方、そのときの皮膚の様子はbに示してあります。
2日から3日目にかけてきれいに直ってきていることがわかります。しかし、cの列に示したようにニューロプシンが無い動物(ノックアウト動物といいます)では 2日目で水膨れがひどく、3日目でもほとんど再生されていないのがわかります。
このようにニューロプシンは細胞の再生時にきちんとした層構造と角化の層をつくることに関係しているようです。
皮膚の活発なときというのは化学物質が付着したり、日焼けしたりするときだけでしょうか?
たとえば身体は際に形造られてくる発達時期にもニューロプシンは強く発現することがわかっております。身体はまず大まかな形が造られ、そして再調整によって、成熟型になってきます。
たとえば指が形作られときには最初はくっついている指に切れ込みがはいって5本の指(写真では4本しか見えていない)ができていくことがわかっております。
このとき切れ込みの部分にニューロプシンがあります。(右図A、Bは四角の拡大、白く光っている場所がニューロプシン、Bでは黒い点がニューロプシン。目が造られる際も同様に、目蓋が開こうとする場所にニューロプシンが染まっています(右図C、矢印のように眼球はほぼ出来ている)。

■子宮のトロホブラスト、肥満細胞
このほか、子宮内でも妊娠して胎盤ができるときニューロプシンはトロホブラストという細胞に発現いることがわかっております。
これは擬妊娠でも起こることから妊娠したという情報と関わっているものと考えられます。また、私たちの研究ではありませんが、肥満細胞といわれる細胞でもニューロプシンが働いていることがわかっております。
これは蚊などに刺されたときその刺激でヒスタミンを放出させかゆみを起こす細胞です。
■ニューロプシンの脳での役割
脳神経系はなにが起こっているのでしょうか。脳でニューロプシンをもっている細胞は海馬の錐体細胞という主細胞のみです(他にも類似の細胞がもっていますが専門的になりますので省きます)。
脳のほかの場所には発現しておりません。海馬のおもな役目は感覚として伝えられた情報を記憶し、保存し、これを最終の記憶場所に送ることです。そこで記憶と似た反応であると考えられている長期増強という実験を行いますと、見事にニューロプシンが誘導され、通常よりさらに増えました。
逆にニューロプシンの酵素活性が働かないようにすると、長期増強を強く抑えられました。ニューロンというのは別のニューロンとシナプスという小さなボタンで繋がっており、情報はこのボタンを通じてつぎつぎとニューロンへ伝えられます。
私たちは別の研究でこのボタンの糊に当たるものが接着分子、L1camという物質であることを見つけました。さて、長期増強が海馬でおこるとニューロプシンのプロテアーゼとしての活性が鋭敏に活性化されます。
このニューロプシンはすぐにL1camを切断してシナプスにマークをつけます。こうしたことから記憶というものはこうしたマークをつけられたシナプスの集合によるものであると私たちは想像しております。
■おわりに
以上のように、ニューロプシンは刺激応答性の細胞にあり、細胞が情報を集めたり、貯えたりして防御あるいは準備のために重要であることがわかります。記憶とは次の情報にたいする準備のために脳に備わっている特殊な能力であり、一種の防御反応であるということもできます。こうした防御のためにニューロプシンは重要な役割をもつと考えられます。